教えのやさしい解説

大白法 504号
 
無疑曰信(むぎわっしん)
 「無疑曰信」は「疑(うたがい)無きを信と曰(い)う」と読みます。心に疑いのない清浄な一念心を「信」といいます。
 『法華経分別(ふんべつ)功徳品』の、
 「能(よ)く一念の信解(しんげ)を生ぜば、所得の功徳限量有ること無けん」(開結 五一八)
との文を受けて天台大師は、『法華文句』に、
 「疑無きを信と曰ひ、明了(みょうりょう)なるを解(げ)と曰ふ、是(こ)れを一念信解の心と為(な)すなり」
と釈しています。ここに明らかなように、「無疑曰信」とは、仏の教えを疑うことなく一念に信解する意義とその功徳を明かした言葉です。
 一念信解とは、『分別功徳品』に説かれる現在(釈尊在世)の四信(一念信解・略解言趣(りゃくげごんしゅ)・広為他説(こういたせつ)・深信観成(じんしんかんじょう))と、滅後の五品(随喜品・読誦品・説法品・兼業六度品(けんぎょうろくどほん)・正行六度品)の内の随喜品と同じ仏法初心の位をいいます。また、妙楽が「本門立行の首(はじめ)」と釈しているように、法華本門の修行の基本、一念三千の宝の筺(かご)、三世諸仏の出生の門として重要な意義をもっています。
 天台大師は、この一念信解・随喜の功徳を観行即(かんぎょうそく)乃至名字即(みょうじそく)に該当すると説きましたが、日蓮大聖人は『四信五品(ししんごほん)抄』に、
 「予が意に云はく、三釈の中に名字即は経文に叶ふか」(御書 一一一一)
と、滅後末法にあっては初めて仏法に結縁(けちえん)した無解有信(うげうしん)の位である名字即と決判されています。
 そして、『御義口伝』に、
 「一念三千も信の一字より起こり、三世諸仏の成道も信の一字より起こるなり」(御書 一七三七)
また、
 「一念信解の信の一字は一切智慧を受得する処の因種なり。信の一字は名字即の位なり。仍(よ)って信の一字は最後品の無明(むみょう)を切る利剣なり(中略)信の処に解あり、解の処に信あり。然(しか)りと雖(いえど)も信を以て成仏を決定するなり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者是なり」(御書 一七七三)
等とあるように、妙法の受持唱題に対する疑いのない清浄な信心の一念、すなわち名字即の位に仏法根源の仏種と三世諸仏の出生の仏種が存すると定めおかれています。
 爾前(にぜん)経では、無量の生死を繰り返しながら仏道を行じ、そして漸次(ぜんじ)に仏法上の位を高め、功徳を満じたところに成仏の境界が存する、と説かれています。
 しかし、『総勘文(そうかんもん)抄』に、
 「名字即の位にて即身成仏する故に円頓(えんどん)の教には次位の次第無し」(御書 一四一七)と説かれているように、末法における妙法受持の行には次第や階梯(かいてい)はなく、即身に成仏を遂げる真実の大利益があります。
 すなわち、大聖人の唱えられた南無妙法蓮華経は仏法根源の仏種のゆえに、私たち末法本未有善(ほんみうぜん)の衆生は、疑いのない信心と唱題によって、名字即の凡身より直ちに即身成仏することができるのです。